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 2011年3月の東日本大震災の発生から間をおかず、山梨大学医学部附属病院は被災地に医療チームを派遣し、最も必要な支援活動の一つを行った。同年5月まで途切れなくチームを送り出し、刻々と変化している被災地のニーズに対応し続けた。その一つに混乱した被災地の状況を把握して管理する事務職員の活躍がある。被災地で実際に活動した医療チームにしか分からない、被災地支援の実際を、山梨大学医学部附属病院長の島田眞路氏に聞いた。(聞き手:佐藤千秋=日経メディカル開発)
停電で混乱する中でも
続けた外来診療
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 2011年3月11日の東日本大震災後、積極的に医療チームを被災地に派遣して、命や健康を守る支援をされていたお話をお聞きしたいと思います。本題の前に、まず、震災当時のこちらの病院の被害状況からお尋ねしてもよろしいですか?
島田眞路氏
 もう、2年も経ってしまいましたね。この病院も相当ひどく揺れましたから、規定通り災害対策本部を地震から30分後には立ち上げました。この時、病院にいた幹部は、私のほか、佐藤副院長ぐらいでして。ほかの副院長や看護部長、事務部長はみな出かけていましてね。でも、みなさんすぐに集まって、病院の被害状況を確認しました。
 停電以外は特に大きな問題はなかったのですが、この停電が病院では死活問題になってしまいます。人工呼吸器など電気が必要な医療機器がたくさんありますから。電力会社にすぐに連絡したのですが、なかなか復旧しませんでした。自家発電で対応できましたが、しばらく電気が悩みの種でした。
 震災の後もしばらくは電気の供給量が足りず、計画停電が行われましたが、計画にはこの病院も対象に含まれていました。3月13日の日曜日の夕方、計画停電を行うという連絡があったので、診療科長や看護師長を含めた職員を集めて対応を協議しました。計画では14時から17時までの3時間だったので、その分、診療時間を20時まで延ばして対応することにしました。結局、停電は中止になったのですが、停電予定の時間帯に入っていた診療予約などを、患者さんに連絡して17時以降に変更していただいたので、こちらは予定通り20時まで診療を続けました。
 その翌日にも停電を計画しているという連絡があり、やはり対応を協議しました。休診するという選択肢もあったのですが、この病院のスタッフはみんな士気が高くて、前日と同じように夜中まで診療することにしました。この時も結局は停電はなかったので、また振り回された形になりましたが。
医療チームの緊急派遣と
見えてきた状況管理の必要性
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 こちらの病院も震災後の対応に苦労されているうえに、被災地への医療チーム派遣が重なってしまい、さぞや大変でしたでしょう。
島田氏
 震災で延期になった大学の入学試験の日、17日に、医療チームの派遣の連絡が県からあったと聞きました。私と救急部長が大学の入学試験の面接を担当した帰りだったのでよく覚えています。すぐに医療チームの派遣を決めました。救急部は「なにが何でも行かなければ」と、翌日の朝4時に出発できるように準備を整えていました。ところが、県の「車の手配などが間に合わない」という事情で3月18日10時の出発になりました。
 この第一班は、救急部の医師を班長に、やはり救急部の看護師2人と薬剤部の副部長の4人でした。宮城県を支援するということでしたので、まず宮城県庁へ行き、そこで「南三陸町へ行ってくれ」との指示を受けました。
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 地震や津波の被害がもっとも大きかったところの一つですね。現地の様子は相当ひどいものだったでしょう。
島田氏
 とにかくすべて流されていたそうです。電気もガスも通っていないうえ、通信も途切れ途切れしか入ってきませんでした。薬剤などの支援物資は届いているけれど整理されずに散乱している状態でした。それは人も同様で、医師やボランティアは大勢駆けつけているのですが、ばらばらで組織されていないようでした。まずはその整理から着手しようと、効率的に管理するために、次に派遣した第二班には不足している薬剤と一緒にパソコンを持って行かせました。
 また、第二班には事務職員の中で特に有能な2人を加えました。混乱している被災地で人や物資の"交通整理"をしてもらうためです。南三陸町には被災後も現地でずっとがんばっておられた西澤匡史先生や菅野武先生がいらしたのですが、第二班の事務職員をとても評価してくださり、「これから事務はもう山梨大学に任せるので、必ず2人ずつ送ってくれ」と依頼されました。
 各班は三泊四日で戻ってくるというスケジュールで派遣していました。第一班が現地から戻る日に次の第二班が到着して引き継ぎをします。第一班が山梨に戻ると第三班と引き継ぎをして、第三班が被災地に向かうというローテーションです。現地の依頼に応えるために、第三班以降も、事務職員を必ず2人参加させました。今回の派遣で何が一番評価されているかというと、うちの事務職員の活躍ですね。
自立に向けて動き出す被災地を
5月まで支援し続ける
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 被災地への派遣では医療スタッフに注目が集まりますが、まさに縁の下の力持ち的存在の事務スタッフの存在が重要という教訓になりますね。この派遣は何班まで続けられたのですか?
島田氏
 4月の初めぐらいだったと思いますが、医療チームの派遣をいつまで続けるかという相談をするために、私も南三陸町に行きました。西澤先生にお会いして、お話したところ、「いずれは自分たちでやっていかなければならないので、いつまでも支援に甘えていてはいけませんね」とおっしゃっていたのが印象的です。もう自立を考えておられました。私たちの医療チームは第二十二班、5月13日まで続けました。
 最後の班には私もまた参加しました。また、どの班を組織するときも、医師も看護師も事務職員も「私が行きます」と、みな積極的に参加しようとしてくれました。これはとても誇らしいことです。
 医療チームの派遣以降、病院で行う災害対策の訓練に対する姿勢が違ってきました。特に看護師中心に熱心に取り組んでいますね。被災地に行った経験から訓練の重要さを感じたのだと思います。
 医師は一般医療の重要性を再認識したようです。医療チームには救急部以外にも様々な診療科の先生も参加したのですが、一生懸命研修医時代のノートとか、本を読んで準備をしてから行っていました。
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 今回の被災地への医療チームの派遣は、DMATなどにも生かされるのではないでしょうか?
島田氏
 実は、それまでこの病院にはDMATがなかったんですよ。この医療チーム派遣をきっかけに、DMATは絶対必要だということになり、今では3班あります。昨年12月の中央自動車道の笹子トンネル事故が、DMATの最初の出動になりました。山梨県からの要請を受けて、出動しました。あの事故が起きた日は休日でしたが、みんなすぐに集まりました。その意味では、機動力が高い病院ですね。半面、出動要請に対してすぐに出発したのですが、すでに亡くなられている方が多く、本来の機能を発揮できたかどうかという点では、少し残念ではありますが。
派遣後も続く被災地との交流
支援活動をまとめた本を素早く発行
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 そのほかにも、今回の医療チーム派遣から得られたことはありますか。
島田氏
 いろいろありますが、様々な形で被災地の方々との交流が生まれました。西澤先生と菅野先生には、2012年8月31日に、山梨に来ていただいて講演をしていただきました。そのほかにも、歌津中学校の阿部友昭前校長先生にも来ていただきました。更には、公立志津川病院を研修協力施設に加え、本院の研修医が地域医療の研修ができる計画もあります。
 それから、今回の活動を一冊の本にまとめました。ホームページで公開していた報告をまとめたものですが、これはとても思い出深い本になりました。この医療チーム派遣プロジェクトを一回も休まずに完遂した記録ですから。
 これは余談ですが、東日本大震災関連の本はたくさん出ていますが、この本は、2011年の7月に発行しました。医療チームの派遣が終了してすぐです。おそらく、この本が最も早く発行された震災関連の本だと思います。文部科学省や厚生労働省の方々から良い評価をいただきました。
 今回の医療チーム派遣は、被災地の方々にも喜んでいただいたし、その後も交流を続けられているし、とてもよい仕事をさせていただいたと思っています。
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大学病院医療情報ネットワーク
発行:国立大学病院長会議常置委員会  広報担当事務局:岡山大学病院  編集・制作:(株)日経メディカル開発